〈神谷瑞樹と夕村香奈(ゆうむら かな)〉
彼女は何の躊躇いも無く室内に入ると一回大きくノビをして、部屋の中を舐めるように見回した。それから、向かいにあるベッドに座った。
対戦者はセーラー服を着て鞄を持っていた。まだ若い。十七か八くらいだろう。茶色く染められた髪の毛、健康的に焼けた肌、スカートのポケットからは携帯電話のストラップが飛び出している。私と同じ格好ではないのは、おそらくゲーム会場に行く際に着替えさせられるからだろう。どうせ参加しない限り金は貰えない。何を着ていようと出ようとはしないだろう。
彼女に恐がっている雰囲気は無い。少し緊張した面持ちは見てとれなくもない。しかし、これからゲームに参加するという様子ではない。保健所に連れていかれる事を知らない野良猫を連想させる姿だった。
そんなに珍しい部屋だろうか、と思いながら私が煙草の煙を吐き出すと、ようやく彼女は私に目を見た。
「あなたが私の相手?」
彼女はクスクスと笑いながら言った。私にはその笑いがひどく見下した笑いに見え、少し腹が立った。
「そうよ。神谷瑞樹って言うの。あなたは?」
「夕村香奈。高校二年生。ねえ、年いくつ?」
「二十四よ。あなたよりは大人よ」
私がそう言うと、香奈は明らかに嫌そうな顔をする。
「そういう風に、大人が偉いみたいな言い方、やめてくれる?」
「‥‥」
香奈の鋭い眼光を無視して、私は部屋の隅に紫煙を吐き散らした。
「別にそんな意味は無いわ。ただ、あなたより長く生きてるって言いたかっただけ」
「あっそう‥‥。ねえ、私にも煙草くれない?」
香奈はすぐに元の表情に戻り、右手をのばす。私は煙草を一本取り香奈に手渡した。香奈は鞄の中からライターを取り出すと、慣れた手つきで火をつける。
二本の煙草から二筋の紫煙が立ち上る。香奈の煙草の吸い方は実に手慣れている。これが一本目や二本目ではないのだろう。
私は大きく息を吸い込み、煙と同時に言葉を吐き出した。
「随分若いわね」
「若いといけないの?」
「そんな事無いわ。若い方がいいのよ」
「何で?」
「面白くなるのよ、ゲームが」
「そうなんだ‥‥。よく分かんないわ」
香奈はどうでもいい、と言いたげな顔をする。さっきからよく表情の変わる子だ。何を考えているのかよく分からない。
それにしてもこの子は本当にこの情況を理解しているのだろうか? ゲームの事を口にしても、まるで他人事を聞くかのような態度だ。
私は少しだけ、ほんの少しだけ彼女に興味がわいてきた。
「そんなにお金が欲しかったの? お金に困っているようには見えないけど」
「全然足りないよ。バイトしたって月七万くらいだし、オヤジとエンコウして金もらってもせいぜい十万くらいじゃん。十七万じゃ、全然生活出来ないよ」
私は何故このゲームに参加したの? と聞いたつもりだったが、彼女は素直にも言葉通りの意味として答えたようだ。私は思わず苦笑いをしてしまう。
香奈は煙草をふかしながら、携帯のストラップを弄くっている。あまり私を見ようとしない。私はそんな香奈に別の質問をする。
「一人で暮らしてるの?」
「お父さんとお母さんと三人暮らし」
「十七万全部、遊びに使ってるの? 随分と贅沢出来ると私は思うんだけど」
「美味しいもの食べて、綺麗な服着るだけが贅沢じゃないわ。私ね。ダイエットする薬を毎月買ってるの。それが高いのよ。とても十七万くらいじゃ、間に合わないの。名前は何て言ったかな? スピードだったかな? 違ったかな? 何だったかな?」
香奈は人差し指を顎に当てて唸る。
私は根元まで燃え尽きている煙草をコンクリートの床に擦り付けた。ニコチンが駆け巡る恍惚感も感じなくなっている体が少し重く感じる。
「痩せる薬って、それ多分麻薬よ。知っててやってるの?」
私は穏やかな口調で言う。香奈は履いていた靴を部屋の端に投げ捨てると、言葉もそんな風に投げる。
「知ってる。でも麻薬って何が悪いのか、私分かんないから。あなたもやった事あるの? だったら教えてよ、何でやっちゃいけないのか。大人なんでしょ?」
香奈は足をジタバタさせ、憎たらしい目を私に向ける。あの目は色々なものを見てきた目だ。きっと、私なんかよりたくさんのものを見てきただろう。でも、この子は何も学ぼうとはしなかったようだ。
「別に私は悪いなんて思ってないわよ。やりたかったら好きなだけやればいいわ」
ゆっくりとした口調で言った。香奈は意外とでも言いたげな顔で、私を見つめ返す。学校の先生の言葉みたいなものが返ってくるとでも考えていたのだろう。
私は別に彼女に薬をやめてほしいなんて思っていない。人に説教できる程私は偉くないし、言ったところでやめるとも思えない。言うだけ無駄だろう。
香奈はまだ煙の棚引いている煙草をコンクリートの床に捨てると、おもむろに持ってきた手提げ鞄を開け、中から透明の小さなビニール袋を取り出した。中には白い錠剤がいくつか入っている。
「よく分かってるじゃない。そうなのよ。周りの奴には関係無いんだから、ほっとけって言うのよね。私の友達がさ、名前はレイコって言うんだけどね、そいつがさ、そんな薬やめろって言うのよ。私、凄く腹が立ってさ、そりゃ、あんたが頭も良くて運動も出来るから言えるんだって、言ってやったのよ。そうしたらレイコ、もう薬の事言うのをやめたの」
袋から錠剤を一粒取り出した香奈は、それを口の中に入れ噛み砕く。しばらくすると香奈は腹で何度も大きな深呼吸を繰り返えす。麻薬の効果がでてきたのだろう。指先が微かに震え、口の端からは涎が一筋漏れている。
私は黙ってそれを見つめている。私は麻薬をやった事など一度も無い。一度見てみたかった。麻薬をやるとどうなるのか。
「‥‥ああっ」
香奈は麻薬の効果に完全に犯されているようだ。大股を開いてベッドに横たわり、時折ケラケラと笑いを漏らす。その声は発情期の蛙の鳴声のように聞こえた。
「ねぇ、あなたもやる? 少しぐらいなら分けてあげてもいいわよ」
「遠慮しておくわ」
「‥‥もったいないの」
香奈は外方を向くと、気持ち良さそうに鼻歌を歌いだす。何の歌かは分からない。
不意に彼女のポケットの中の携帯電話が鳴りだした。流行の曲が流れる。その曲は、香奈の口ずさんでいる鼻歌と同じ曲だった。香奈はブルブルと震える手で電話を掴む。
「もしもし? あっ、トモミ? うん、今ね、ちょっと出られないのよ。えっ? どこかは言えないよ。秘密。大丈夫だよ、ユウスケの所じゃないから。私があんたの男取るわけないじゃない。私だって相手いるんだよ。二人も相手に出来ないよ」
口の端から漏れている涎が笑う度に飛び散る。
「‥‥」
私は香奈の言っている事が気になった。香奈には彼氏がいるらしい。何となくそれは予想していたが、私はそれを聞いて少し重い気分になった。もしも香奈が死んだら、きっとその彼氏は悲しむだろう。出来ればそういう人間は作りたくなかった。そういう人間は私だけで良かった。
出来る事ならば、その彼氏は香奈の事なんかこれっぽっちも愛していない事を願った。
「うん、分かった。明日の午後六時ね、絶対行くよ。お土産持っていくから。ほら、この前持っていったじゃん。痩せるあの薬だよ。私さ、お金沢山あるから、いっぱい買っていくよ。そんで、夏休み最後の日に海行こうね。じゃあね、ばいばい」
香奈は携帯の電源を切った。そんな彼女の顔はどこか誇らしげに見える。私はその意味が分からなかった。
携帯を枕元に置いた香奈は、薄ら笑いを浮かべながら私を睨んでいる。怒っているのか、喜んでいるのか、どちらなのか分からない顔だ。涎がポタポタとベッドのシーツを汚している。スカートからのびている綺麗な足は微かに震え、意味も無くのばされた手は、何かを掴もうとしているかのようにも見える。
私の目に映る香奈は、小さくて弱そうに見えた。一人で笑って、一人で震える。ベッドに寝そべり、誰が掴むわけでもないのに、両手を空にかざす。
私も昔はあんな感じだったと思う。だから、あの人にもたれないと安心出来なかった。あの人がいてくれたから、あの時の私は三回もゲームに参加する事が出来た。でも、今はあの人はいない。もう、もたれる事は出来ない。
今の私も、周りの人から見てみれば香奈のように見えるのだろうか?
「‥‥」
不意に扉を叩く音がする。香奈は聞こえていないようでじっと私を睨んでいる。私は香奈を無視して、扉越しにどうぞ、と明るげに言った。
「飲み物と食事を持ってきた。二人で食べてくれ」
向こうからそんな台詞が聞こえた。少しして扉の鍵が外され、食事の載っているトレイを持った高瀬が入ってきた。私が軽く会釈をしても、相変わらず笑おうとはしない。
高瀬はいつも決まった時間に食事を持ってくる。食事はいつも豪華だ。中華料理だったり、フランス料理の時もあった。つまり、“最後の晩餐”という事だ。
今日はどうやら日本料理のようだ。脂ののった刺身と朱色に茹であがったカニ、そしてイクラののったご飯が添えられている。飲み物は烏龍茶と日本酒のようだ。
高瀬は香奈を見る。
「麻薬か?」
「そうみたい。多分、ご飯はあんまり食べないと思うわ。あっ、心配しなくてもいいわよ。私が全部食べるから。私、イクラって好きなのよね」
「そうか‥‥」
高瀬は料理の載ったトレイを私が使っているベッドの上にそっとのせた。私は生真面目な態度の高瀬の顔に紫煙を吹き付ける。それでも、高瀬は嫌な顔一つしない。
「ねぇ、何でこんな子選んだの?」
「私には分からない。参加者は主催者の連中が決めるからな」
「ふうん‥‥」
時たま高瀬の口から主催者、という言葉を聞くが私は何も知らない。ゲーム会場には観戦者達がいるが、彼らが主催者なのかどうかも知らない。でも、知ったところで何が変わるわけでもない。
「まあ、私には関係の無い事ね」
「‥‥かもな」
高瀬は素っ気なく答えた。
高瀬はまだ疑問に思っているようだ。私が何故ここにいるのか。私は日本酒の入ったコップを手にする。
「あなたはあまり気にしなくていいわよ」
「何の事だ?」
「私がここにいる事よ。半年前の事も別に怒ってないし。ただ、自分の中で見つけた答えがここだったのよ」
「‥‥分からない。死んだ者に為に死ぬなどと」
「分かっちゃいけないのよ。普通の人はね」
「‥‥」
高瀬は何かを言おうとして口を開ける。だが、言葉は出てこなかった。私はそんな彼に笑顔を見せた。彼の思っている事は私には分からない。でも、もう一度くらい彼に抱かれてもいいかな、と私は思っていた。
高瀬は結局何も言わず部屋から出ていった。私は煙草を部屋の隅に投げ捨てると、ご飯を食べだした。
初めてこのゲームに参加した時は食事なんてとても出来なかった。これから生と死を賭けた戦いをやるのだ。食べたくても喉を通らなかった。だが、何度かやっている内にそういう感覚も薄れてきた。今では、最後くらい美味しく食べなくっちゃ、と思うようになった。
「ねえ、あなたも食べれば? 美味しいわよ」
私はカニの足を一本もぎ取ると、ベッドの上で薄ら笑いを浮かべている香奈の口に突っ込んだ。カニの足をくわえたまま、香奈は懸命に言葉を吐き出そうと口を動かす。
「ああっ。ええと、名前何だっけ? ごめんなさいね、私最近物忘れが激しいのよ。まあ名前なんかどうでもいいか。ねえ、あなた、男の人とどれくらいセックスした?」
「やった回数? それとも男性の数?」
「やった回数の方」
「そうね‥‥。五十回はやってるんじゃないの? 殆ど同じ人だけど」
「恋人? その同じ人って」
「そうよ」
「ふうん。二十四の割りには少ないんだね。私はね、殆ど毎日やってるの。それが十五の時からだったから、今までで七百回くらいかな? どう、凄いでしょう?」
香奈はベッドから起き上がり、私のベッドに腰掛けた。そしてカニをくわえたまま、器用に烏龍茶を一口すする。私はトロの刺身を口にほおり込む。
「セックスが好きなのね。でも、別に凄いとは思わないわ」
「何で? あれって凄く気持ちいいじゃない。毎日やらなきゃ、絶対人生損するって」
「そう思うかどうかは、人次第よ」
椀の底に残ったイクラを一粒ずつ味わいながら言った。
「あーあっ、早くこんな所から出て、佑一クンとエッチしたいなぁ」
香奈は天井を見上げる。
「彼氏?」
「違う。一番エッチが上手だった人」
「結婚とか、したい?」
私が聞くと、香奈はカニの足を吐き出し、烏龍茶を飲み干した。
「まさか。どっかの大学の先生が言ってたわ。結婚は女性を束縛するって。私はね、死ぬまで自由でいたいのよ。好きな時に男とやって、好きな時に寝て、好きな時に死ぬの」
「‥‥」
箸を持つ手が少し止まる。私もあの人と一緒にいた頃はそんな事を思っていたかもしれない、と脳裏に過った。
「後三十分くらいで試合だけど、そこで死にたい?」
あらかた食事を済ませた私は、空になりつつある煙草の箱から一本を取り出し火をつけ、含み笑いと共に紫煙を口から吐き出す。その様子を香奈は不機嫌そうな態度で見つめている。
「嫌よ。死にたくなんかない。私はあなたを殺して、お金を手に入れて、それで一生楽して生きるの」
「そんなに簡単にいくもんじゃないわよ」
私は諭すように言う。実際気楽に出来るゲームではない。しかし、彼女はそんな私の言葉を遮るように私を睨み付ける。
「あんたが簡単じゃなかっただけの事よ。私だったら出来る」
「‥‥あっそう」
本当に昔の自分をよく思い出させる子だ。この子は何も知らなかった頃の私と似ている。セックスを自慢した事は無かったけれど、自分一人で世界を動かせると昔の私は信じていた。根拠も実力も無かったのに、そう信じて疑わなかった。
私は俯いて煙を吐き出す。頬を撫でながら昇っていく煙が目に染みて痛い。
「‥‥」
私はなりたくもなかった大人になったのに、何故この子は大人にならないのだろう。そんなのは不平等だ。私だけが辛い目に遭って、この子は幸せになるなんて嫌だ。麻薬でラリって、好きな男といつでもやって‥‥。こんな奴に、賞金なんか渡したくない。こんな奴に私の最期を看取ってほしくない。
私は死ぬ為にゲームに出る。でも、この子の為には死にたくない。
もう少しでゲームが始まる。
「最後に一本どう?」
わたしが煙草を勧めると彼女はそれを断り、スカートのポケットにしまっていたビニール袋の中の錠剤を取り出した。
私と香奈は高瀬に連れられ、薄暗い廊下を歩かされる。扉を開けると左右に廊下が走っている。私は扉を背にすると左側から来た。会場は右側の廊下をずっと歩くと辿り着く。どうやってこの廊下に辿り着いたかは知らない。分かっている事は、ここはとある大きなビルの地下にあるという事だけだ。ビルに着くと、高瀬が目隠しをしてしまう為、どういう道を辿ればここに着くのかは分からない。
香奈はセーラー服を脱がされ、靴も脱がされ、大きめのTシャツを着させられた。私と同じ服装だ。
麻薬のやりすぎだからだろうか。香奈の体は恐ろしく痩せていた。骨と皮だけという風体だ。胸は膨らみがはっきりと分かるが、それも何ともひ弱だ。私が男だったら、こんな女を抱く気にはなれない。
私の前には高瀬がいる。
「‥‥」
一言の言葉も無い。きっと言いたい事があるのだろう。でも、彼は訊ねない。私も言う事は無い。
後、一分くらい歩けば試合会場に着く。何度行っても、あそこは好きになれない。でも、死ぬ場所としてはそんなに悪くない所だと思う。
香奈はさっき飲んだ麻薬が効いているのだろう、何の恐怖感も無さそうな顔をしている。試合会場に行ってもそんな顔が出来るだろうか。きっと出来ないだろう。でも、もう私にはどうする事も出来ない。
しばらく歩くと、左側の壁に大きな扉が見えてくる。あそこが試合会場だ。
扉の前で高瀬が立ち止まる。そして振り返り、私と香奈に言う。いつもと変わらない、抑揚の無い口調で。
「‥‥入れ。ゲーム開始だ」